歴史


古代〜唐代(中国茶の歴史1〜3)


中国茶の歴史 1
今や、お茶は世界中で最も多く愛飲されている嗜好飲料ですが、紅茶や日本茶も含めてお茶のルーツはすべて中国にあります。時には祭祠または薬として利用されながら次第に飲料に発展していきました。中国五千年の歴史と言われたりしています。
原産地については様々な説があり、雲貴高原から四川説や、雲南省南西部の西双版納(シーサンパンナ)と呼ばれている地帯があります。今を遡る五千年前、火と商業と農耕の神で漢方薬の始祖とされている神農(しんのう)が書いたとされる現存しない「神農食経」という書物の中で、荼という字を用いたことで喫茶の起源とされています。唐の時代お茶の聖典とされる「茶経」を編纂した陸羽が、六之飲の中で喫茶の起源に関して言及したことで茶の祖とされるようになりました。
陸羽が神農を喫茶の起源として判断した根拠は、茶経の七之事で「神農食経」の記述として、「お茶を長く飲み続けると、人は力つき元気になる」と引用しており、陸羽のいた唐の時代には伝説上の人物を喫茶の起源とする説が有力であったことがうかがえます。

 

中国茶の歴史 2
お茶の飲み方では、漢代に蜀(四川)の王褒(おうほう)が記した「僮約(どうやく)」の中には当時既にお茶が飲まれていて、その売買があったことが記載されています。
紀元前11〜前7世紀ころまで栄えた周の武王の時代には、すでにお茶が飲まれていたことが陸羽の茶経に書かれています。後漢(1〜3世紀初頭)の時代に入って、四川省近辺の茶産地から始まったとされる飲用の習慣が揚子江流域にまで拡大し、三国時代(3世紀初〜中)から晋(3世紀後半〜5世紀初頭)の時代には、官僚や王侯貴族など上流階級に喫茶の習慣が流行しました。
南北朝時代(5〜6世紀末)に入ると喫茶の習慣は庶民層にも浸透し、多くの素材と一緒に煮出したようなお茶が飲まれていたという記録があり、大都市部(長安や洛陽のような)や地方でも富裕層にお茶が普及していた事をうかがい知ることができます。
3世紀に魏(ぎ)の張揖(ちょうしゅう)の著した「広雅(こうが)」には、餅茶の製造に関しての記録や飲み方として葱(ねぎ)、生姜(しょうが)やみかんの皮を混ぜて飲むという記述が出てきます。

 

中国茶の歴史 3
唐代の製茶としては餅茶という固形茶が主流で、運搬に適しているため喫茶の普及を促しました。喫茶がなくてはならない必需品となる中で、湖北省天門出身の陸羽が「茶経」三巻を著し、当時のお茶の普及の様を伝えています。
その後宰相にもなった常袞(じょうこん)が福建に左遷されてきて作ったお茶が研膏茶(けんこうちゃ)で、武夷山は研膏茶によって有名になりました。その後さらに発展して蝋面(ろうめん)茶が作られて皇帝への献上茶となり、武夷山(ぶいさん)は岩茶で有名になりました。このお茶を研(と)ぐという工程は、蒸してから水を加えて擂粉木(すりこぎ)と擂鉢(すりばち)とで細かく擂りつぶして作ることから名付けられました。蝋面茶はさらに細かく擂ったために茶葉の蝋成分が表面に出てきたためとか油膏を加えたために光沢があってそう言われました。
やがてこのような製法は宋代の抹茶に引き継がれていきました。唐代は茶馬貿易が開始され、茶葉に税金が課せられたり、専売制度ができてお茶を中心に経済活動がなされました。

 


宋代〜明代(中国茶の歴史4〜6)


中国茶の歴史 4
唐が滅んで宋代に入ってもお茶の専売制度(榷茶<かくちゃ>法)が継続され、自由なお茶の輸出が厳しく制限されました。馬の購入の支払いでは、金属の貨幣から布帛(ふはく)や茶に変えていき、 ますます盛んになっていきました。唐末期に作られるようになりました龍鳳(りゅうほう)茶が宋代では龍鳳団と呼ばれ、献上茶となってからは北苑(ほくえん)茶と呼ばれました。
唐代は餅茶と言われた固形茶が宋代には片茶や団茶と言われ、餅茶よりもずっと精巧なものが作られました。龍鳳団は固形の表面に龍や鳳凰の模様が入れられた皇帝専用茶でした。唐代は葉を砕くのに臼と杵で茶は薬研(やげん)を使って挽いていましたが、宋代では葉は擂鉢(すりばち)でおろして茶は石臼が使用されたため、より粒子が細かい粉末になりました。茶末に湯を直接注いで泡が出るように茶筅(ちゃせん)で力強く攪拌して、どろっとした濃いお茶をたてて黒い茶碗で飲むという習慣で点茶といわれました。茶園は福建・建安の北苑茶園が、貢茶と呼ばれる宮廷御用茶の専用茶園として有名になりました。
また北苑近辺の建窯(けんよう)で焼かれた黒釉(こくゆう)の天目茶碗(てんもくちゃわん)が最も有名になりました。

 

中国茶の歴史 5
宋代も榷茶法を実施して政府が専売し、私販を禁止して従わない者を死罪にしたりして、政府は莫大な利益を上げて財政を潤しました。
南宋に留学していた僧栄西(ようさい<えいさい>)が臨済宗を伝えるとともに茶の種子を持ち帰り、筑前の背振山(せぶりやま)に播種しました。また抹茶や天目茶碗、作法を伝えて点茶法は日本で継続されることとなり、禅僧、戦国大名、大商人へと広がって茶の湯が打ち立てられました。
千利休の死後千家が茶道の家元として茶文化を受け継ぎ後世へ伝播させていきました。中国では明代になって散茶が普及したため、抹茶は消滅していき現存していません。南宋を滅亡させて統一した蒙古帝国の元はそれまで続いていた馬を得る必要がなく、茶馬交易はなくなりましたが宋代からの榷茶は継続して行われました。
武夷山を通った軍隊に武夷山の石乳というお茶を差し出したことで、フビライ皇帝に献上茶が気に入られて毎年献上するようになり、その後武夷山に皇帝用の御茶園(おちゃえん)が造られました。御茶園は明代になっても引き継がれ、250年以上も献上茶を作り続けました。

 

中国茶の歴史 6
それにより製茶が生臭い蒸し製茶から釜炒り製茶に変わり、またお茶の淹れ方も茶壷(急須)を使用する泡茶(ほうちゃ)に変わりました。その結果龍井茶(ろんじんちゃ)が発展しました。
茶馬司というのは北方との茶と馬の交易を執り行う役所のことで何ヶ所も設置され、すべて官吏が取り仕切っていました。永楽帝(えいらくてい)は宦官(かんがん)の鄭和(ていわ)を南海に派遣し、産品の交易を求めて大船団でインド洋、アフリカ東岸まで7回も遠征し、通商貿易の拡大に努力しました。16世紀になると大航海時代の幕開けで、ヨーロッパの探検家や宣教師が多くやってくるようになり、お茶の情報が多く伝えられました。
17世紀にはオランダの東インド会社がジャワのバタビア、イギリスの東インド会社がボンベイに設置されて交易を行うようになりました。日本のお茶もオランダ人が輸出しましたし、中国のお茶もオランダ人がイギリスに売るようになりました。
イギリスが厦門に商務機構を設置し茶の取り扱いを開始すると、貿易に熱心な福建を中心に様々なお茶が持ち込まれて紹介されました。18世紀になるとイギリスの茶葉輸入は増大し嗜好がはっきりしていきました。18世紀初頭は松羅茶(しょうらちゃ)という緑茶がSINGLO(シンロ)として好まれましたが、やがて武夷山の発酵茶でBOHEA(ボヒー)が増大していきました。イギリスではミルクを入れて飲むスタイルが普通であったため発酵茶の色調の濃いお茶が好まれるようになったと推定されます。

 


清代(中国茶の歴史7)


中国茶の歴史 7
清の乾隆帝が中国茶取引の決済には銀としたため、イギリスは銀不足に陥って財政危機に瀕し、インドのアヘンを使用するようになりました。清政府の禁止令にもかかわらずアヘン中毒が増加し清政府を悩ますこととなっていきました。
一方イギリスは中国以外での茶樹探索に乗り出し、イギリス人のブルース兄弟がアッサムで茶樹を発見しました。欽差(きんさ)大臣の林則徐(りんそくじょ)がアヘンを没収して処分したため、清とイギリスの間でアヘン戦争が勃発しました。結果清がイギリスに屈して南京条約を調印して、香港割譲や五港開港を飲んで半植民地化されていきました。その後中国の茶業は目覚しく発展しましたが、インドの茶産業も快進撃を続け、世界の茶市場は拡大を続けていきました。
南京条約以後は殺青をせずに揉捻を行う紅茶が主流となり、インド以降の国々でも紅茶を生産するようになっていきました。20世紀初頭には世界の茶葉生産は大多数が紅茶で、当初飲まれていた緑茶や半発酵茶は中国と日本を除くとごく限られた少数派となっていきました。
20世紀前半の戦乱によって中国の茶産業は崩壊し、さらに文化大革命でも影響を受けたため停滞を余儀なくされました。1972年の日中国交回復により、中国茶が輸入され、とりわけ烏龍茶がブームを巻き起こしました。日本でのブームに引きつられて、福建省の茶産地の復興が起こり始め、やがて国内の経済発展と連動して勢いがついてきています。